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教会の共同体に益をもたらす、相互の関係
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」1霊的虐待(スピリチュアル・アビューズ)が深刻な問題として認識されている今日、「指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」という命令には、ある種の危うさが伴います。誤解を恐れて、この聖句を取り上げるのをためらってしまいがちです。けれども、これは盲目的な服従への呼びかけではなく、指導者と会衆の双方に益をもたらす協力関係への招きなのです。
「服従」をとらえ直す
先へ進む前に、二つのことを確かめておきましょう。一つは、権力の濫用が重大な問題であり、それを未然に防ぐ具体的な備えが欠かせないこと。2 もう一つは、この聖句自体が私たちの不安を見越したうえで、指導者は「神に申し開きをする者」であるという安心を差し出していることです。信じる者に与えられている益は、自由であることです(ガラテヤ5:1、ヨハネ8:36)。私たちは認められることを必要とせずに善を行い、見返りを求めずに与えます。キリストのしもべとされた私たちは、人々がほかの場所で探し求めている自由を、すでに見いだしているのです。まだ信じていない人たちは、この自由をいまだ見いだしていません。神に認められることを知らないため、人に認められることを求めて生きているのです。罪の奴隷として、置かれた状況や欲望に、そして人への恐れ、失敗への恐れ、将来への恐れに支配されているのです。
そのうえ世の中は、「自由」とは制約を取り除くこと、すなわちルールも境界線も服従もない状態だと定義します。けれども、それが偽りの自由であることに、世はまだ気づいていません。私たちは目的をもって造られた存在であり、その目的のうちに生きるときにこそ、自由を見いだすのです。3 ですから私たちが従うのは、従いたい気分だからでも、生まれつき従いやすい性格だからでも、結果を恐れるからでもありません。感情にも、指導者の力にも目を留めず、神への献身のゆえに従うのです。新約聖書の時代には、クリスチャンを迫害したローマ皇帝ネロがいました。イエスを十字架へと引き渡したポンテオ・ピラトがいました。パウロを投獄したフェリクスがいました。それでもなおペテロは、こうした制度に従うようにと人々に勧めたのです。指導者のためではありません。良い指導者であれ、悪い指導者であれ、「主のゆえに」従いなさい(1ペテロ2:13)。なぜでしょうか。善を行うことによって「愚かな者たちの無知な発言を封じる」ためです(1ペテロ2:15)。
もちろん、身を守る仕組みは大切です。けれども、ヘブル13章17節を前にして反射的に身構えてしまうなら、著者が心を砕いている一点、すなわち何が私たちの「益にはならない」のかを見落としかねません。この聖句が語る服従への招きは、人間の不完全さの問題というよりも、神が定めた枠組みを重んじることの益にかかわる問題なのです。
では、その「益」とは何でしょうか。
相互の関係
この聖句には、指導者の重荷を軽くするように、という招きが込められています。ジャレッド・ウィルソンはこれを「誠実な恵み深さ(faithful graciousness)」と呼びます。その核心にあるのは、批判の精神ではなく、実りをもたらす存在であること、すなわち言葉と行いとをもってキリストの栄光を現そうとする姿勢です。ウィルソンはこう説きます。「誠実な恵み深さとは、手のかからない者であろうと努めることだ。牧師を嘆かせる、あの心の狭い、ささいな振る舞いに手を染めないことだ」4 指導者よ、自らの喜びを求めなさい
喜びは、牧会の務めに欠かせないものです。「この人たちが喜んでそのことをし」(ヘブル13:17)。指導者が自らの務めのこの面をおろそかにすれば、冷笑的になったり無関心になったりしかねず、やがて共同体に十分に仕えられなくなってしまいます。指導者は自らの喜びを養わなければなりません。喜びの欠如を、会衆だけのせいにすることはできないのです。
「孤児たちの父」として知られる19世紀の信仰者ジョージ・ミュラーは、このことを示唆して次のように書いています。
「私が毎日、何よりも先に取り組むべき第一の務めは、主にあって自分のたましいを幸いで満たすことであった。第一に心を向けるべきは、どれほど主に仕えるか、どのように主の栄光を現すかではなく、いかにして自分のたましいを幸いな状態に保ち、内なる人を養うか、ということだったのである」5会衆よ、指導者の喜びを求めなさい
会衆が心を合わせて協力するなら、嘆きを小さくし、喜びを大きくする手助けができます。その理由はこうです。指導者が嘆きながら務めを果たさざるをえないなら、それは会衆の益にはならないからです。つまり、会衆の喜びは指導者の喜びにかかっているのです。指導者は自らの喜びを求め、会衆は自分たちの喜びのために、指導者の喜びを求めるのです。
指導者の喜びと会衆の喜びという相互の関係が健やかに機能するとき、そこに教会の美しさと共同体の力が際立って見えてくるのです。
共同体の喜びを守るために
残念なことに、指導者と会衆が分かち合う喜びは、しばしば現実離れした期待によって損なわれます。人は、揺るぎない支え、完璧な指導者、欠けのない共同体という理想像を抱いて教会に来ることがあります。けれども現実に見えてくるのは、不完全な人々の集まりです。そのとき失望と幻滅が入り込み、共同体を結び合わせるはずだった喜びが薄れていくことがあるのです。
これを乗り越えるために、会衆も指導者も、本物の共同体を育てる具体的な歩みを始めることができます。そしてその歩みが、そのまま喜びを守ることにつながります。
恵みをもって現実を受け入れる:教会とは、それぞれの信仰の旅路を歩む、不完全な人々の集まりです。欠けたところにばかり目を向けるのではなく、共同体がキリストに似た者となろうと努めている、その姿に目を向けましょう。視点をそう切り替えるとき、互いへの恵みと忍耐の余地が生まれます。
期待を調整する:教会を、不完全な人々のただ中で成長と変革が起こっていく共同体として見るように、期待を整え直しましょう。指導者を含むすべての人が、成長の途上にあることを心に留めましょう。
理想よりも、愛を:ディートリヒ・ボンヘッファーが示したように、「こうあるべき」という共同体の夢にしがみつくのではなく、目の前にある現実の共同体を愛することを第一にしましょう。6 人をあるがままに受け入れ、愛をもって支え、不完全さを抱えた一人ひとりが担っている大切な役割を認めていくのです。共同体に積極的に関わる:思い描く共同体を育てるために、自分から行動を起こしましょう。奉仕や導きを担うこともできれば、ただそこにいて支えることもできます。心を開いて人を食卓に招き、キリストにならったもてなしと親切を示すのです。
開かれた対話を育てる:教会の中に、開かれた対話の文化を育てましょう。メンバーも指導者も、裁かれたり仕返しされたりする恐れなしに、不満や懸念を口にできる安全な場をつくるのです。それが対立の解決を助け、一致を育てます。
この相互の関係は、私たちに日々の選択を振り返るよう促します。SNSでの「いいね」や低評価、批判といった私たちの関わりは、牧会の課題を和らげているでしょうか。それとも、深刻にしているでしょうか。恨みに根ざすのか恵みに根ざすのか、その私たちのあり方が、信仰共同体の霊的刷新を形づくるうえで決定的な役割を果たすのです。
箴言27章17節は語ります。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」。彫刻家が粗い石から美を彫り出すように、指導者への変わらぬ支えと励ましは、教会という共同体を研ぎ、高めていきます。そのようにして私たちは、神が思い描いておられる教会、すなわち誠実な恵み深さを特徴とし、神の国の前味をこの地にもたらす助けとなる共同体を体現する者となるのです。
脚注
ヘブル人への手紙13章17節(新改訳2017)
これは重要な課題に触れておくためのものであり、本稿の主題そのものではありません。網羅的なリストではありませんが、不健全な力関係を解きほぐす手立てとして、次のようなものが挙げられます。
指導の務めを分かち合う:説教や指導を複数の人が担うようにします。教会が一人の声と権威を中心に回ることを防ぎ、説教者を交代制にすることで力の一極集中を避けられます。
多様性を受け入れ、尊ぶ:礼拝の中でさまざまな文化や言語が表され、尊重される環境をつくります。多数派の文化に属する人々が、少数派の人々に役割を委ねる余白をつくるよう促します。
説明責任と透明性を育てる:メンバーが集まって話し合い、ともに決定する場を定期的に持ちます。牧師の謝儀を含む会計を公開して信頼を築き、メンバーが懸念を率直に口にできるようにします。
難しいテーマについて開かれた対話を促す:デリケートな話題についても、多様な意見を恐れずに語り合える場を整えます。会話を牧師の権威のもとに限定するのではなく、信徒が話し合いをリードできるようにします。
すべてのメンバーを等しく重んじる:財力や影響力によって特別扱いをしません。社会的・経済的な立場や貢献の大小にかかわらず、一人ひとりを教会という家族のかけがえのない一員として迎えます。
過ちを認め、声に耳を傾ける:教会の指導者は、誤りを公に認め、会衆の声に基づいて軌道修正する用意を持つべきです。へりくだり、変わろうとする姿勢こそが、会衆の声への心からの敬意を物語ります。
ティモシー・ケラーは、自由と「神の定めた目的という制約」との関係を、示唆に富むたとえで説明しています。「一匹の魚を思い浮かべてください。魚は水の中にいます。ところが魚は言うのです。『水の中に閉じ込められているのはいやだ。不公平じゃないか。こんな束縛はごめんだ。自由になりたい』。魚は、川の外の陸地へ上がったことが一度もないことに気づきます。そこで決心するのです。『よし、行ってみよう』。ところが陸へ上がったとたん、魚はのたうち回り、息も絶え絶えになり、死にかけてしまいます。なぜでしょうか。魚は陸で生きるようには造られていないからです。けれども水に戻してやれば、尾をひるがえして、すいすいと泳ぎ出します。なぜでしょうか。そこが、魚が生きるように造られた環境だからです」
Jared Wilson, Encourage Leaders with Faithful Graciousness(ジャレッド・ウィルソン「誠実な恵み深さをもって指導者を励ます」)
George Müller, Autobiography, 1:271(ジョージ・ミュラー『自叙伝』)
「キリスト者の共同体に持ち込まれる人間の願望の夢は、どれも真実の交わりを妨げるものであり、真実の交わりが生きながらえるためには、取り除かれなければならない。キリストの教会そのものより、自分の思い描く教会の夢を愛する者は、たとえその意図がどれほど誠実で、熱心で、犠牲的であろうとも、教会を打ち壊す者となる。神は夢見ることを憎まれる。夢は人を高ぶらせ、思い上がらせるからである。理想の共同体を思い描く者は、その実現を神に、他者に、そして自分自身に要求する。彼は要求を携えてキリスト者の交わりに入り、自分の律法を打ち立て、それに従って兄弟たちを、ついには神ご自身をも裁くのである」(ディートリヒ・ボンヘッファー『共に生きる生活』より私訳)
Bookology(Substack)「Faithful Graciousness」2025年2月初出
著者:Damian Grateley(デイミアン・グレイトリー)
